禁止薬物メルドニウムを使用したことで15か月の出場禁止処分を受け、やっと今夏にグランドスラムの舞台(USオープン。最終的にはベスト16に進出)に復帰を果たしたマリア・シャラポワ。実は復帰の2週間後の9月に『Unstoppable. My life so far』という自伝を発売していた。
シャラポワはこの本の中で、ウィリアムズ姉妹との思い出などテニスのことのみならず、負けた時のストレス解消法といったコート外での私生活についても語っている。また、彼女の人生を変えた出来事についても明らかにし、テニスプレーヤーとしても一人の人間としても「チェルノブイリの事故の後、まだ一歳の時にロシアからアメリカに避難(移住)したことは大きな出来事だった」と述べた。このように、この本は幼少期から最近の出場停止処分にいたるまでシャラポワの人生を振り返った内容となっている。
I’m so excited to show you the cover for UNSTOPPABLE, the memoir I’ve been working on for the past year! Out 9/12.https://t.co/JrLqO5bod7 pic.twitter.com/Na2ghSBeoD
— Maria Sharapova (@MariaSharapova) April 17, 2017
恋愛についても赤裸々に語ったシャラポワ
そして、シャラポワは自身の恋愛話からも逃げなかった。成就しなかった過去の恋について語りたい人間はいないと思うが、彼女は自伝の一章を割いて、ブルガリア人プロテニスプレイヤーであるグリゴール・ディミトロフとの恋愛について赤裸々に語ったのだ。
2013年から2016年までの3年間交際をした二人だが、その数か月前にディミトロフの方からシャラポワにアプローチをしてきたようだ。数か月間友人として連絡をとりあった後、正式に交際を始めたとのこと。2013年当時のシャラポワはすでにキャリアグランドスラムも達成して一流選手として活躍していたが、ディミトロフはまだタイトルを一度も獲得していなかった。しかし、2013年にマドリッドで行われた大会で当時ランキング1位のジョコビッチに勝つなど、ちょうど才能が花開こうとしていた時期だった。シャラポワはまさにディミトロフが一流になる姿を一番近くから見守っていたのだ。
シャラポワは、ディミトロフとの関係を振り返りながら、二人で濃密な時間を一緒に過ごすことができたが、結果的にうまくいかなかったのは出会うタイミングが良くなかったのだろうと述懐している。
そして、先日、シャラポワがディミトロフとの関係を綴った章の一部がツイッターのユーザー @duplagreska によって公開された。テニスファンだと名乗るこのアカウントに公開された文章を以下に紹介する。
なお、英語の本文は http://www.twitlonger.com/show/n_1sq6eo1 で読むことができる。
シャラポワとディミトロフ、二人の恋愛
2012年10月、私(シャラポワ)は北京で行われていたチャイナ・オープンの準々決勝を終えてコートを後にしているところでした。携帯を見るとマックスからメッセージが届いていたので、いつもどおり『ありがとう』と返信しました。10分後、彼から再びメッセージが届いたので私はびっくりしました。マックスはマイアミにいて、そこでは午前4時のはずだったからです。まだ寝ていないの!?と驚きました。
『グリゴール・ディミトロフが君の電話番号を知りたがっているんだけど』
メッセージを確認して、私はもう一度びっくりしました。ドキドキした、と言ってもいいかもしれないですね。
そのあと、私は携帯をポケットにしまって試合後のクールダウンを始めました。10分間のバイク運動と15分間のストレッチです。その間もコーチが試合内容について私に話しかけてきていましたが、私は心ここにあらずという感じで彼の話を聞いていませんでした。なぜなら当時のコーチのトーマスは試合の後にいつも同じような話を長々とするので私はうんざりしていたからです。
携帯をポケットから取り出してみると、再びマックスからメッセージが来ていました。『グリゴール・ディミトロフが君の電話番号を知りたがっているんだけど』というまったく同じ内容。なんで二回送ってきたの?マックスは北京の電波状態が悪いと思っているのかしら?と不思議に思いました。
『目的は何?』
と私は返信しました。するとマックスから
『目的だって?君はバカなのか?』
とメッセージが返ってきました。
私はネットを検索してディミトロフの年齢を調べてみました。成人しているのか気になったんです。
21歳。大丈夫。そう判断して、
『メールアドレスなら教えていいよ』と返信しました。
私は以前ウィンブルドンで、背が高くて細身の男の子とすれ違ったのを覚えていました。白い歯を見せてにっこりと笑った彼の姿を見て、彼は自分がハンサムだと分かっている人間だな、と思ったんです。そしてコーチに『あの子が自分と同じ世代に生まれなかったことを神に感謝しないと。もしそうだったら、彼に気をひかれて集中できなくなっていたかもね』と話したのを覚えていたんです。
何回かメールの交換をしたあと、ディミトロフは私の電話番号を聞いてきました。私はちょっとイジワルをするような気持ちで彼をもったいぶりながら、まずはブラックベリーのIDを交換し、そのあと電話番号を教えました。それから、私たちはeメールではなく電話で話をするようになり、しばらく経つと電話からスカイプでのビデオ電話になりました。何も特別なことはしていませんでしたが、電話を重ねる中で、私たちは徐々に心を通わせていきました。
それまで彼のことを男性として強く意識していたわけではなかったのですが、ある時、電話をきった後、30秒後に彼がかけなおしてきたんです。『ごめんね、でも君の声が聞きたい。もう少しだけ話をさせてもらえないかな?』と彼は言いました。それが彼を意識するきっかけになったのかもしれません。その頃は彼のランキングも知りませんでした。
私たちはそれからもスカイプで連絡をとりあいました。私の母は、私がディミトロフと電話をするのを見て、まるであなたのセラピーね、と言うようになりました。彼との電話が終わるといつも私が笑顔だったからです。
ある時、ディミトロフのスケジュールを見ていたら気になることを発見しました。パリでインドア・トーナメントが開催されたのですが、彼はあまりにも早く現地入りする予定だったのです。私には理解できませんでした。対戦相手が決まる前にパリに行って何をしようというのでしょうか?私はすぐに携帯を取り出して『Live Scores』というアプリを開きました。そのアプリを使うと、世界中で行われているテニス大会のライブ・スコアや対戦予定などがすぐに分かるのです。3年間サーシャ・ブヤチッチと付き合っていたときには四六時中NBA.comを見ていて、彼の出場時間やシュート決定率などを確認していました。正直、こんなすぐに同じような状況になるとは思ってもいませんでした。でも結局そうなってしまいましたね。
まず、本戦の対戦表を見てみるとディミトロフの名前はありませんでした。次に予選の対戦表を見ると彼の名前を発見しました。世界60位。そのあと、アプリにかじりついて彼の予選を見守っている自分に気が付いたのです。
いろいろなことがありましたが、ついにある晩、彼が真っ赤なバラと大きなテディベアを持って私の家にやって来て、二人一緒に数週間過ごすことになりました。何日か経った時に、彼が私に『付き合ってもらえませんか?』と尋ねてきました。私はそういうことを聞かれると思っていなかったので、びっくりして虚を突かれたようになっていましたが、彼は『君の心の準備ができるまで待つ』と言ってくれたのです。
『この人は誰?』私は自分自身に問いかけました。
私は彼を見てこう思いました。なぜこんなハンサムな人が、コートでテニスを楽しむことができるのに、自分と付き合ってくれるかどうかわからない女をいつまでも待ってくれるのだろう?
『OK』と私は口を開き、『でも、いつになったら心の準備ができるかわからない。何か月も先かもしれない』と続けました。
彼は『OK』と答え、『いつまででも待ちます。僕が欲しいのは君だけだから』と言いました。
それからあっという間に数か月たちましたが、私たちを遮るものは何もありませんでした。私は、彼が成長し、勝利し、苦しみ、立ち上がる姿を見守っていました。調子がいい時もわるい時もありました。でも私は彼のプレーを見るのが大好きでした。
クリスマスの日には椅子に座って彼の練習を見ていました。そこには、私、親友のエステル、彼、彼の練習パートナーの4人だけしかいません。カリフォルニアのきれいに晴れた日で、ぜんぜんクリスマスっぽくない日でしたね。
私は彼がランキングを駆け上がる姿を見ていました。その間に、彼が泊まるホテルも、マドリッドのネズミも泊まりたがらないような汚いホテルから、パリのフォーシーズンズ・ホテルやニューヨークのカーライル・ホテルに変わりました。オーストラリアに移動するときに少額のアップグレード料金を惜しんでエコノミープラスにしたがらないような『坊や』でしたが、億万長者の友人に提供してもらったプライベートジェットで移動する一人前の男にもなりました。ある日、ブリスベンで私の試合が終わった後、彼は私のチームの全員に『自分もいつかこんな素敵なチームを持ちたい』と描かれた白いパリッとしたシャツをプレゼントしてくれました。私たちの関係が終わる前に、彼はその夢をかなえていますね。私はディミトロフの成長を見守っていました。彼は、自分の意見を持ち、自分で決断できる、成熟した人間へと成長していったのです。
ディミトロフは次世代のロジャー・フェデラーと呼ばれていました。他にも次世代の誰それと言われたことがあります。現在のところ、彼は最高で世界ランキング8位になっていますし、すばらしいポテンシャルを秘めています。彼のストロークは本当に美しいです。彼がボールを打ち、スライドする姿は見る者の目を捉えて離しません。そして、彼はハードコートでもそれができるのです。
彼の身体能力は並外れています。神様から与えられたギフトでもあるし、ある意味では彼を苦しめるものでもあります。彼のスタイルとして、ただ勝つだけではなく、美しく勝つことが求められてしまうのです。完璧かゼロか。信じられないようなプレーか凡庸なプレーか。彼がまだ秘めたポテンシャルを完全に発揮できていないのはそのためです。
『偉大なプレイヤー』と『良いプレイヤー』の違いはなんでしょうか?良いプレイヤーはすべてがうまくいったときに勝利します。一方で、偉大なプレイヤーは何もかもうまくいかなくても、ひどいゲームの時でも勝利します。つまり、調子が悪くても勝利するのです。すべてのゲームで調子がいい人間など存在しません。
散々な日。自分をちっぽけに感じる日。力が出ない日。そんな日でも何かをやり遂げることができますか? 難しい質問です。幸いなことに、私は片手で数えられる程度の日であれば、完璧に近いプレーをできたことがありました。ただ、それ以外のほとんどのゲームではどうやって試合に勝つか、自分のプレーの引き出しをいつも探していました。ギリギリの状況の中でなんとか泥臭く勝った試合を挙げればきりがありません。残念ながらディミトロフはまだそういう技術を学んでいません。簡単でも完璧でもないので、彼はそういうことをやりたがらないように見えます。
最近、彼が全豪オープンのセミファイナルに進んだ後、彼と電話で話す機会がありました。そこで彼は、人生で最悪なことは望ましいことが誤ったタイミングに起きてしまうことだ、と伝えてきました。それを聞いて私は2015年のウィンブルドンの前に二人で過ごした夕暮れを思い出しました。彼はその前年にアンディ・マリーに勝って準決勝に進みましたが、そこでノバク・ジョコビッチに1-3で敗れました。その夕暮れ、彼の試合を見ながら、彼はウィンブルドンの歴代の優勝者をまとめた本を取り出し、静かにページをめくると私の写真が載ったページで動きを止めました。そして、悲しそうな表情で私を見ながら、私の記憶では彼の眼には涙が流れていました、『これを見た?僕にとってはこれがすべてだよ。君が僕の母と並んでボックス席に座っている姿を見たい』と言いました。
その瞬間にそれまで我慢していた私の感情のたがが外れました。私も、そして彼も、これまでもこれからも私がそのような人間にはなれないことを理解していたのです。その出来事があったのは、本来なら私が自分の試合に向けて集中している期間でした。ウィンブルドンという大舞台には全神経を注がなくてはなりません。ただ、その日にたまたま彼の試合を見ていたのは、私が早い段階で敗退してしまっていたからです。彼にとっての良い思い出は、私にとっては悪い思い出なのです。
私が負けていなければ、この日はなかったのです。
確かに彼が言ったとおり、望ましいことが誤ったタイミングに起きてしまうことがあるのです。